こんにちは。キラです。
今の”私”という人間のルーツは
二つあります。
一つは
私がこの世に生まれた原点で
もう一つは
教師としての始まりの学校です。
1.最初に赴任した学校のこと
最初の赴任校は
まるでドラマに出てくるような
学校でした。
荒れていました。
授業に出ずにふらふらしたり
トイレや校舎の裏に
たまったりする生徒が
たくさんいました。
自転車を
廊下で乗り回す生徒もいました。
そんな生徒たちによる
授業の妨害は
日常茶飯事でした。
平気で
授業中であろうと
他のクラスに入りました。
だから授業中は
後ろのドアの鍵を閉め
安全上
両方閉めることはできないので
前のドアからの乱入を
体をはって阻止しなければ
なりませんでした。
ある朝出勤すると
校舎の一階の窓が20枚くらい
割られていたこともありました。
教師と喧嘩して
怒った数人の生徒が
職員室に乱入して
窓から中のものを尽く
投げ捨てたこともありました。
その生徒たちは
警察に連れて行かれました。
学級崩壊のようなクラスも
たくさんありました。
学級が集団として
機能していないだけでなく
授業が全く成立しないのです。
でも学校全体が
そんな状況だった
わけではありません。
1学年12クラスありました。
教師も1学年に20人近くいる
マンモス校でした。
学年ごとに職員室があって
学年ごとに教師集団のカラーが
ありました。
荒れていたのは
担任が寄り添うことと
甘えさせることを履き違えて
ヤンキーのような生徒たちだけ
指導というより
抱え込んで親身に世話するような方針の
学年でした。
2つの学年がそうでした。
クラスの生徒たちにも
そういう生徒たちを
同じように抱えさせるような
学級経営でした。
やりたい放題のヤンキーたちを
担任でさえコントロールできないのに
生徒が対等に
かかわれるわけありませんでした。
多くの生徒たちはヤンキーを恐れて
我慢していました。
先生たちも同じです。
荒れた生徒を抱えられる人と
抱えられない人がいて
抱えられない人のクラスは
学級崩壊してました。
抱えている人のクラスも
攻撃的ではないだけで
担任以外の授業は
成り立たないことは同じでした。
その学校の校区には
経済的に困窮した人たちが
多く住む地域がありました。
荒れている生徒の多くは
その地域に住んでいました。
だから教師はまず
その地域に受け入れられることが
必要でした。
その地域の保護者の
協力なしには
学校経営さえ困難になります。
10年も20年もその学校に
いる教師は
その地域の保護者たちと
懇意にすることで
生徒とも懇意にしてました。
かつて保護者を担任した教師もいました。
そんな先生たちが
荒れる生徒たちをずっと見捨てず
粘り強くかかわり続け
卒業しても
支え続けたということにおいては
尊敬していました。
また奇跡のような
リーダー性をもった生徒が
ほんのわずかいて
そういう生徒を育てる力をもった
これもわずかな教師がいて
荒れた生徒も巻き込み
奇跡のような団結したクラスをつくる
場合もありました。
20年以上その学校の教師だった
ある女の先生が
「私の青春は〇〇中と共に
去りました。」と言われ
びっくりしました。
若い時の全てを捧げて
教師をしてきたということだからです。
その女の先生の情熱的な
生徒へのかかわりのエピソードは
教師の間のみならず
生徒の間にも
伝説のように語られていました。
でもそれはどの教師にも
できるというわけではありません。
そんなクラスは
12クラス中1〜2クラスです。
残りの多くのクラスは崩壊していました。
2.私の所属学年のこと
私の教師としてのスタートの時
所属した学年は
学校を変えようとする教師たちが
集まった学年でした。
1学年でした。
私を含め新採用の若い教師は
副担任でした。
その学年には
教師としての力があり
自分の考えを
主張する力をもった教師が
たくさんいました。
その教師たちはベテランでしたが
その学校に赴任して
年数が浅い教師がたくさんいました。
その学校の伝統的教育方針に
従わないので
古くからいる教師たちの
目の上のたんこぶでした。
私の学年の先生たちは
全員で力を合わせて
チームの力で
学年全体のクラスを
学級集団として機能するクラスに
しようという
試みをもっていました。
それは
その荒れた学校を
中学生が当たり前に
学習や部活に熱中できる
学校にするということでした。
荒れた生徒たちの住む地域の
保護者たちも
地域をよくしたいという
願いをもっていました。
そのためには
その地域の未来を担っていく
子供たちに
学力をつけることが
大切であることを
理解してもらおうと
保護者とも積極的にかかわりました。
そして生徒に対しては
リーダーを育てるために
いろんな分野で
リーダー会を組織しました。
リーダー会の中心は
クラス代表である代議員たちによる
代議員会でした。
その他班長長会、生活委員会、文化委員会、など
適宜開かれました。
全ての教師がどれかの
リーダー会の指導を担当しました。
教科などの係もつくり
生徒は一人一役を
担当しました。
行事をたくさん企画して
それをリーダーたちに
運営させました。
もともとある修学旅行や
体育祭や文化祭のような
大きな行事は役割を決め
リーダーたちの活躍の場面を
つくりました。
問題にも
リーダーたちが
知恵と力を結集して取り組むよう
仕組みました。
学級内でも
代議員と班長を中心に話し合いを重ねて
取組を進めました。
そして
授業を大切にして
学力を付ける取組もしました。
宿題を含めた家庭学習を
全員がやり切る取組や
授業への目標を決めさせ
毎日評価させることを続けました。
そして
学力を伸ばす
支援をするだけでなく
教師が部活に毎日出て
部活で好きな運動の能力や
文化的な能力を伸ばす支援もしました。
部活で自信を付け
力を付けた生徒もたくさんいました。
教師間の決まりがありました。
「休まない。
部活には毎日出る。
小さな問題もみんなで共有する。
指導には協力してあたる。」
ということでした。
職員室に貼ってありました。
ある時
あの教育評論家として有名な
尾木ママが講演に来ました。
たくさんの学びがありましたが
ずっと私の中に残ったのは
生徒の指導は一貫していなくてはいけないこと
教師間でも同じで
意識統一が不可欠であること
そのために
どの教師も同じことを言い続けることが
大切であることです。
尾木ママは
生徒を押さえつけたり
生徒を従わせようとするのではなく
とにかくいけないことはいけない
正しいことは正しいと
言い続けろと言っていました。
伝え方はいろいろあっていいと言いました。
彼は言いました。
「弱い先生は弱いなりに。」と
3.荒れた生徒たちのこと
荒れる生徒たちは
怒りを抱えていました。
自分たちが家族に
大切にされてこなかったことに
怒っていました。
親もその親も
大切だという気もちの伝え方を
知らなかったのです。
親たちも怒りを抱え
怒りをぶつけることしか
できなかったのです。
家族みんなで
社会に怒っていました。
自分たちを大切にして欲しいという願いが
いつも裏切られできたことに対して
怒っていました。
そして彼らは怒りながらも
悲しみを抱え
絶望していました。
だからその気もちを聞いてくれ
大切にしてくれる教師に
なつきました。
でもそれは彼らの
絶望の解決には
なりませんでした。
なぜなら彼らの中には
中学校を卒業したら
やっぱり荒れた生活をする
生徒がたくさんいたからです。
彼らはその環境のせいで
自己肯定感が低かったのです。
そこから生まれる絶望は
悲しさや怒りが少し癒されただけでは
なくなりませんでした。
4.私たちの試み
私の学年の先生たちは
生徒に生きる力を付けようとしました。
生徒たちが自分の力で
人生を切り開いていける力です。
それは
自分の力を信じることができ
人生に目的をもつことができる
力です。
人とつながり
助け合っていく力です。
たった3年間という短い時間で
どこまでできるかわかりませんでしたが
学年の教師みんなで同じ志をもって
努力しました。
生徒たちはそれらの取組で
集団の力が付いたことで
友達を信じたり
課題の解決に
挑戦して達成感を味わったり
できるようになりました。
みんなで励ましあい助け合うことで
目的をもって
努力する姿勢が育ってきました。
生徒たちは
自分の能力は努力で
伸ばすことができることを
知ったのです。
私たち教師は毎日遅くまで
ひどい時は夜が開けるまで
休日さえ休まず
生徒たちにかかわり続けました。
教師としての仕事もたくさんありました。
今思えば
人間らしい生活ではありませんでした。
それでも
生徒たちに気もちが伝わらず
つらくて悔しくて腹が立って
生徒と喧嘩になることも
しばしばでした。
とっくみ合いになって
生徒に止められるという
恥ずかしいこともやらかしました。
若気の至りです。
かげで何度も泣きました。
それでも
あきらめず訴え続けました。
決めたことをやり続けました。
そうしたからといって
全ての生徒が
私たちの思うように
変わっていったでわけではありませんでした。
上級生とつるんで
相変わらず反抗する生徒もいました。
粘り強く家庭訪問をしました。
それらの生徒は
自分のクラスの友達にとって
不利益になることは
あまりしませんでしたが
それでも
上級生のヤンキーと行動を共にしたり
同じような生徒同士とつるんで
生活や行動を変えることは
ありませんでした。
「どうせオレらは…」とか「どうせうちらは…」
といつも言っていました。
寂しさは癒されることなく
絶望も深かったのだと思います。
5.ある生徒のこと
私が副担をするクラスの
ある荒れた男子も
そういう生徒の一人でした。
母子家庭でお母さんは美容師でした。
彼が小さい時
よく釣りに連れて行ってくれたという
お父さんが
彼が小学校の高学年の時に
女の人と去っていったことに対する
衝撃が
彼に深い喪失感と
失望感を残しました。
傷ついたお母さんには
自分の辛さだけしか見えず
そのお母さんが
彼の気もちに寄り添うことなく
仕事に打ち込むことで
辛さを乗り切ろうとしたことが
彼に孤独感をもたらしました。
彼は中学校中は
不良グループに入って
落ち着くことはありませんでした。
教師の指示に従わず
授業や学校をサボって
悪事を繰り返しました。
お母さんも責め続け
いつも泣かしてました。
でも彼は卒業してからは
好きな車の修理の仕事につき
今でも頑張っています。
お母さんとも仲良しです。
粘り強くかかわった
クラスの2人の友達と
卒業後も関係を続け
私も1年に一度
私が副担任をしていたクラスの
担任の先生の家に集まって
3人と会っていました。
彼は中学校では荒れていましたが
少しずつ友達や教師とのかかわりを通して
人を信じることができるように
なっていったのだと思います。
彼には人とのつながりが
財産として残りました。
ただ
7年前そのうちの一人が
脳腫瘍で
若くして亡くなってからは
2人とも会っていません。
2人と担任の先生と私で
彼のお葬儀に行って以来会ってません。
いつも亡くなった彼が
会おうとみんなを誘っていたことに
今更のように気づきました。
6.第二のルーツ
私は
その担任の先生をはじめ
共に頑張った学年の先生たちとは
今でも関係を続けています。
会えばいつも
その頃のいろんなエピソードを
語り合って盛り上がります。
そのときの担任の先生の家には
今でもよくお邪魔しますが
行くといつも
その学年の記録ビデオや
写真を見せられます。
見るのはいつも同じビデオや写真です。
その時の生徒たちとも
たまに集まって話をします。
大人になった彼らは
たくましく生活していて
会うたびに元気をくれます。
その学校には9年間在職しました。
私はその間
特に最初の3年間に
先輩の先生たちや
生徒たちから
たくさんのことを学びました。
それは
人を導くとはどういうことで
どのようにすればいいのかということです。
お互いのことを思い合い助け合う関係が
人を強くすることです。
決意し
努力することで自分が望む
力を付けることができることです。
目的をもって挑戦することで
人生を変えることができるということです。
生徒たちは身をもって
これらが真実であることを
証明してくれました。
これらの
自分を信じて
自分の使命に向かって
生きていくことのできる
人生の真実を
私はこの学校で学びました。
この学校が
私の第二のルーツです。
ここでの経験のおかげで
語り尽くせない
これまでの
数々の困難を乗りこえて
教師を続けていくことができたのです。
時には皆さんも自分のルーツを
思い出してください。
皆さんのルーツから始まる経験が
どんなに辛いものだとしても
それを乗り越えてきた
今の皆さんに
きっと自信と勇気をくれるでしょう。


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